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本日、個人サイトのサービス、ジオシティーズが長い歴史に幕を下ろします。
私の個人サイト『クソザっ子通信』も移転が既に完了しています。 (新しいアドレスにも遊びに来てね!) 長きに渡り、お世話になった私の心は今、感謝の気持ちで一杯です。 しかしその反面、非常に残念な気持ちも隠し切れません(´・ω・`) なので今日は『個人サイト』について語らせて頂きたいと思います。 インターネットが普及するまでの時代。 個人が自分の中にある何かを表現にして発信する術は、それこそ物書きやら芸術のプロになるか、又は同人誌をコミケで発行する位しかありませんでした…。 その領域に達することの出来ない人達は陰で涙を呑んでいました(´;ω;`) 確かに、出来ない人達に何の落ち度も無かったとは言えない(´-ω-`) それでも、頑張っても到達できなかった人達、必要な何かをどうしても用意できずに活動の出来なかった人達の中には「表に出さないなんて勿体無い」とも言えるネタを抱えた人達、「他の発信の方法さえあれば…」という状態の人達も居たのです! インターネット黎明期の始まりは、正にそれの証明でした。 数々の傑作サイトや、斬新な表現方法に富んだ個人サイトなどが、インターネット上に次々と溢れ出したのです。そう、正に時代は一転したのです! …時は経ち、ブログ、SNSといった物がインターネット上に普及し始めます。 それらから発信されるネタや情報は、速報性はあるものの、脈略のない羅列という形で発表されます(現代の主流なので御存知でしょうが)。 個人の発信ではあっても、自己表現とはとても言い難い段階で放置されたまま、人々は次の新しい発信を求めに行く。 特定の情報やネタがカテゴリ別に分類されて整理されたとしても、ほぼ他人の作った土俵と言わざるを得ないレイアウトの場であったり、第三者の手の内という場所の中で複数の人の物がまとめられた形がほとんどです。 …しかし、それらが次第にインターネット上における個人の発信の方法の中心となってゆきます。 反対に『個人サイト』という物は、「同じインターネット上に存在する発信」というだけで平行線上に並べられ、「過去の物」「もう誰も見向きもしない物」と必然的に扱われる結果となってしまいました。まるで陥れられるかのように。 個人サイトにも、個人サイトにしか出来ない役目があるにもかかわらず。 また、SNSに人が流れていった理由の一つに「サイトを作るのと違って楽だから」という声も以前はよく聞きました。 しかしSNSと個人サイトでは、同じ「個人の発信」でも目的や方向は全く違うもの。 なのに、それを伏せた「甘い囁き」に人々が翻弄されたようにも思えます。 どうにもならない理由を抱えた人達の前にやっと現れた『助け』の手。 しかしそれらは「努力しなくても良い権利を得られる」と解釈した人達の手によって、まるで本末転倒の如く別物に変えられてしまう。世の常かも知れませんが。 SNSの普及は考えようによっては、生活保護などの不正受給、うつ病や発達障害のインチキ診断を斡旋する悪徳業者のようです。 別にSNSが悪者と同列だと言っている訳じゃないけど、結果的にインターネット界を悪い方向に荒らされた形の人々も存在するという面があるのも知って欲しい。 SNSが存在することを悪いこととは言わない。 しかしSNSがあれば個人サイトは要らないなんてことは絶対無いはずです! この文章を読んで共感を感じてくれた人達は是非、共に立ち上がって欲しい。 昔のように個人サイトが当たり前のように存在できた時代を取り戻そう! 最後に、個人サイトのブームに大きな活躍を残してくれたジオシティーズが一人でも多くの人の心に永遠に残ることを祈らせて頂きます(-人-) 追伸: ちなみに私はSNSの『ツイッター』をよく「ツイスター」と呼びます。 別に素で間違えてる訳でも、面白いと思って言ってる訳でもありません。 「ツイッター」の語感って何か「あースッキリしたー」みたいで、まるで発言という物を、野グソ垂れ流すような物だと考えてるようなイメージがあります。 比べて「ツイスター」だと「ありがとうございましたー」みたいで、発言の場を頂ける事への尊さや感謝を感じてるイメージなんです。 PR |
(昨日が九九の日だったので) 毎年一人ずつ増やす予定だとか冗談で言っていたけど、本当に1年に1人のペースでしか増やせていないでござる。年取ると時間が過ぎるのが早いので。それはそうと、今回の一番のテーマとなった「お絵描き」。 ここでは、それについてちょっと語りたい。 この単語には、僕は相当昔から思うことがあって、気になってたんですよ。 時を遡ること10年以上前…。あるチャットでの出来事。 (インターネット普及辺りの時代からもうそんなに時が過ぎてんのかよ…) お絵描きの話をしている時に、こんな質問が出てきました。 「どうしてわざわざ『お絵描き』なんていう言い方をするのですか?」 質問の具体的な意味は、『お絵描き』という小さな子供の遊びのような表現をするのは何故か? 自分の言動を下げるように見せる理由でもあるのか? …というようなことでした。 普通に考えたら、そういう言い方をワザトすることで「趣味の範囲でやってる」という面を強調したいといった理由が一番強いんでしょうが…。 (それ以前に、そんなの深く考える必要すらない会話の場だったんですけどね) でも僕はその時、それとは別の可能性が頭をよぎっていました。 「お絵描き」という単語の、それぞれの文字の見た目に注目してたんです。 『お』…大きな曲線があり、楕円とはいえ「丸」が出来ている。 『絵』…大部分が斜めの線で構成されていて「三角」を連想させる。 『描』…縦と横の線で安定した形が出来ていて「四角」が堂々とある。 ○△□を連想する文字が並んでいるようにも見えなくもない。 しかもよく考えると、すごい奇跡的なバランスで。 (『き』は演出とかツールを連想できなくもないし省略してもいい) 色んな形のイメージを網羅している文字列から「自由度の高いことをしている」という感覚を得られるのが気に入ってるという理由も少しは無いだろうか。 もちろん意識的にだけではなく無意識も含めて。 『6×4=24』という式の形を見てたら、たまたま『お絵描き』って単語の形と似てる気がして、昔思っていたことを再び思い出してしまったんですよ。 「子供みたいな言い方をわざわざする」 …そんな表現は『お絵描き』に限らず様々な場所で見かけます。 そして時には、その理由を振り返ってみるのも大切だと僕は思ってるんですよ。 その最も代表格ともいうべき例は、『おっぱい』です。 (僕をよく知ってる人は「あ~やっぱり」って思ったでしょうけど) この話、何度目かって感じだけど大切なことだから何度も言う。 現代は「おっぱい」という表現が軽くなりすぎていると思うんですよ。 「女性の胸=おっぱい」ではありません! 「おっぱい」という一つの世界なんです。 本来なら「おっぱい」は幼児語。そしてそんな言い方をわざわざ表現として使ってきた人たちは、ちゃんと意味があってそうしてたんですよ。 その意味の内容は人によって違うでしょう。でもね、特殊な表現を使うって事に意味があるということを意識するかどうかが大切なんです! 最近じゃアダルティなエロ会話でも軽々しく「おっぱい」って言い方が使われていますが、僕から見れば以ての外です! 下品さが高い場合は、せめて「オッパイ」という表現にするべきです。 『おっぱい』という表現の前提すら考えたことのない人が、女性の胸の話を追求しただけで「おっぱい」って単語を出すのを見るのは、もう嫌です。 例えるなら『日本ツインテール協会』を見ている時みたいな気分になります。 どいつもこいつも…誰かが「おっぱい」って言い出したら、まるで免罪符でも得たかのように連呼して単語を軽いものにしやがって…。 自分の言動の薄っぺらさを恥ずかしいとは思わないのか!? (おっぱいの話を現在進行形で堂々としている奴が言っていい台詞ではない) こんな時代が僕は本当に嘆かわしいです。 そりゃ僕だって「おっぱい! おっぱい!」って、よく騒いでますよ。 でもそれは本当に「おっぱい」が好きだから。軽々しいつもりは微塵も無い。 …気が付くと、おっぱいの話を長々としてしまった。 結局、おっぱいのことばかり考えてます。 今回増えた九九の擬人化キャラも、おっぱい大きいけどそれは偶然です。 6の段や8の段の偶数ってなんか豊満そうかな~と思ってしまっただけです。 何気に理由もなく巨乳設定な擬人化キャラは作ってない…つもりです。 |
新年見舞い申し上げます。
昨年も残念ながら世界は滅びませんでした。 今年は20“13”という縁起の悪い数字の年です。 そんな語呂合わせが奇跡を起こしてくれると信じて皆さん、この醜く悪意に満ちてて最低な『現実』という世界に頑張って抗い抜きましょう。 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように 世界が滅亡しますように リア充が爆発しますように |
このクソブログも100記事目に到達しました。
本来なら必要なのは、お祝いより反省会というところなのですが、せっかくなので100繋がりで百合の話題でもしましょう。 先日、『百合色』でググった結果に出た候補… キマシってもうそんなに一般的な用語だったのか…? う~ん…特に他に百合の話題が無かった。 仕方ないので、100円ショップの話でもします。 最近CanDoで売ってる箱が、同人誌の整理にとても役に立ってる。 (花柄とプリン柄があるやつ) 本来ならカラーBOXの引き出しみたいに使うらしいんだけど、B5サイズの本が丁度入るサイズなんですよね。 縦に入れると少し上が余るし、蓋もできないからそんなには積み重ねられないけど、一時的な置き場所としては、すごく便利。 使わないときは折りたためるし、100円だし。 貧乏人だけど物は多いから、置き場所に困ってるタイプのオタクは、100円ショップのアイテムを上手く使えるようになると生活が捗るぞ。 店によって微妙にラインナップも違うから、複数の種類の店を把握しておくといい。 積み重ねが可能系のトレーや引き出しで互換性のある商品が、いつの間にか絶版になってて困った時も、大手チェーンでないマイナー店とかにはまだある場合もあるから、探してみて損は無い。 ダイソーの組み立て式メタルラックも同人誌整理に便利です。 個人的にダイソーはあんま好きじゃないけど。 あとこれ100円じゃないんだよね。 最近増えたこの風習が、自分としては好きになれない。 100円ではなくともお買い得であることに変わりはない。 しかし100円ショップという一つの完成された文化に恩恵を受けながら、平気で掟破りな事をしてしまうのは、先人達の作った道に対して少し敬意が足りないのではないかと思ってしまうのです。 個人的に100円ショップはただ安いだけでなく、全てが同じ値段であることに何か大きな安心を感じていました。 そこには格差や差別なんてものは無い。 100円ショップは、一つの「世界平和のテーマパーク」。そう言っても過言ではない。 そんな感覚に包まれるのが好きでした。 そんな大げさな言い方をしなくても、風情というのを求めてしまうのは人の自然な性というもの。 「便利や得ならそれでいい」という考え方は淋しいです。 無粋な考え方しかできない生き方よりも、風情や情緒なんかを楽しめる方が、貧乏やダメ人間生活でも違ってきますよ。 歴史や誰かの作ったような風習とかには合わせる必要は無いと思います。 自分の中にちょっぴりずつでいいから、世界が美しく見える何かを自分の目で見つけて宝物にしていくんです。 そうしていくうちに、見えない何かが変わっていくと信じたい。 …100記事目記念の最後に、ブログタイトル通りの「ダメ人間を極めた者」らしいことが言えた。 上手くまとまって良かった。 |
僕は基本的にアニメとか版権キャラの絵は、あまり描くことがありません。
しかしせっかくブログにアニメの感想とか書いてるなら、たまには絵も描いて添えてみようかなとも思い始めている最中です。
公式絵やキャプ画から、スポイトツールで拾ってしまっていいのだろうか?
スポイトで拾ってしまうと、それは模写やコピーと同じになってしまう気がしてしまう…。 この辺は暗黙の常識みたいのがあるような気がするので、もし詳しい人が見ていたら是非教えてください。 まぁそもそも色なんていうのは、光の当たり方で変わるもので、同じキャラの色でも場所やシチュエーションで変わるものというのが現実的な見解なのでしょうが、そこはまた次元の違う話ということで(汗
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